翻訳家インタビュー
 
鎌田三平さんの巻
ペンネームの由来
読書好きになり、たっぷりの素地を得る
そして編集者に
50冊だしたら好きな本を
訳書リスト  


鎌田さんの話は人を惹きつけます。語り部のようによどみなく話をされるのに引き込まれたインタビューでした。

ペンネームの由来

生まれは千葉県。家は時計店を営み、その後自転車店、鉄工所となった。鉄工所の時に日中戦争がはじまり、景気がよかったという。その頃に生まれた鎌田さんの兄は、写真もいっぱい残っているそうだ。けれども疎開先の千葉で生まれた鎌田さんの時には景気も悪化し、兄の時とはずいぶん落差があった。3、4歳の頃に蒲田に移り、それからはずっと蒲田在住となる。だからペンネームは「鎌田」と名付けたそうだ。では「三平」のほうは?

「軽い感じがいいかなと思って。響きが軽いでしょ。意味はないんだ。軽くいい加減につけてみました(笑)。その頃、浅倉久志さんにあこがれていてね。その名前の響きにずっといいなと思っていて。ちゃんと作家のアーサー・C・クラークからとっているんだけど、あんまりそれがわからない。そういうのがいいなあって思って」

軽やかなペンネーム、鎌田三平はこうして生まれた。

読書好きになり、たっぷりの素地を得る

当時住んでいた蒲田の神社に、月に2回ほど縁日が立ち、鎌田さんもよく足を運んでいた。そこで万年筆の「泣売(なきばい)」も見ていたそうで、臨場感たっぷりにその時のことを話してくださった。「泣売」は話術である。巧みな言葉で物を売り買いさせる様子に見入っていたのは、話術のおもしろさを堪能していたからだろう。

両親も本好きで、6歳上の兄も本好き。本に囲まれて育った鎌田さんにとっては、本を読むことも縁日の物売りの話術を楽しむことも、同じ線上にあった。兄が、ミステリマガジン、ヒッチコックマガジン、SFマガジンを創刊号から読んでいたので、鎌田さんはいつでも自宅の本棚から取り出して、それらを読むことが出来た。本好きで、物語好きになる環境は生まれた時から整っていたとも言える。

また中学校の先生にも恵まれたという。文芸部に入り、顧問の先生から文章を書く英才教育の薫陶を受けた。書く時は題材について細かく箇条書きに書く、例えば花火を見に行ったことを書くのであれば、何時に家を出て、その場所に到着するまでに何があったか、着いてからは何があったかを書き出していき、すべて書き出してから、その中のどれをふくらませて文章を書くか選択する。

顧問の先生は国語ではなく数学の教師だったのだが、兄が別の中学で同じ先生から教わっていたこともあり、鎌田さんはその部を選んだのだ。おかげで、書くことについて力をつけ、その後文字数の決まった文章も5%の字数差で的確に仕上げることができるようになった。

そして編集者に

「その先生に教わったことで文章を書くことは自信がつきましたね。作文の授業でも周りが400字の原稿1枚書くのに苦労しているなか、僕は5枚くらい書いちゃう。それもすごく早く書き終わっちゃうから残りの時間が退屈でね。原稿用紙の裏に落書きばかりしていたら、それで怒られたこともありますよ」

中学で文章を書くことを習得してからは、高校の国語などがつまらなく感じたそうだ。明治大学文学部英文科にすすんだあとは、編集者になるしかないだろうと、その方向で就職先を考えた。最終面接までいった出版社は残念ながらよい返事をもらえず、どうしようと困った時に大学の掲示板で早川書房の募集を知った。1名募集枠の厳しい(!)選考を通り、ノベルズ文庫の編集部の所属となった。

鎌田さんの岐路には、何かしら運命のようなハプニングが起きる。

就職先を探さなくてはと思っていた時に掲示板で募集を目にし、偶然にも鞄には履歴書が入っていた。その足で早川書房に向かうと、会社の入っているビルがなかなか見つけられない。実は近代的なビルを想像していたので見つからなかったのだが、周辺をあと一周して見つけられなかったら帰ろうと思った時に、早川書房の名前入りのトラックが止まって場所がわかった。中に入って待っていると、「W大学とK大学の人間しかとらないつもりだが、どうしようか」という会話が聞こえてきたそうだ。それでもせっかく来たのだからと、翌日の試験日程を教えてもらえた。あと一日遅れたら試験は受けられなかったのだ。

そして試験内容は、偶然にも大学で学んだミュリエル・スパークが出た。クセのある英文だが知っている作家なので、及第点の翻訳ができた。また面接でも「悲劇喜劇」の雑誌の話題で好印象をもたれ、入社が決まる。

当時、アラビア半島で石油の勉強をしていた兄に気分転換用に、本屋で見つけた石油採掘にからむ冒険小説、アリステア・マクイーンの『恐怖の関門』(伊藤哲訳/早川書房)を送っていた話などもしたので、ノベルズ文庫向きの人間だと思われたらしい。

入社後、今岡清さん(鎌田さんより半年先に入社)と早川書房の本棚にある銀背(ハヤカワ・SFシリーズ)をどれだけ読んでいるか競ったりもした。後で知ったことだが、先輩編集者が鎌田さんのことを「伊藤典夫と森優(SFマガジン編集長)を足して2で割ったような奴だ」と言っていたという。もちろん、風貌だけとのこと。

編集部に所属して最初にした仕事は本をバラすことだった。

「本を切ることに最初は抵抗がありましたよ。でも仕事ですからね。次第に慣れました。2冊の本を準備して、背を切ってバラしてA4の紙に貼り付け、翻訳者の方が手を入れやすいようにする。それが文庫をつくる編集部での最初の仕事でした。あと、入社してから半年くらいは、仕事で読む文章量が飛躍的に増え、さすがに本が読めなくなりました。月に3冊刊行していましたのでね。漫画の吹き出しすら読めない状態でした。それでも、それにも慣れて本も読めるようになっていきましたけどね」

50冊だしたら好きな本を

毎日、とにかく仕事に追われていた鎌田さん。課長から、50冊本をつくったら1冊好きな本を出していいよと言ってもらえた。

鎌田さんの希望する1冊は『オズの魔法使い』だった。

「そんな本を出してどうする」と課長は否定する。

しかし鎌田さんの気持ちは変わらなかった。アメリカの映画や文学、さまざまなシーンで『オズの魔法使い』が出てくる。この本は大事なんだと課長に力説し、ついに了承を得た。翻訳者の選定は浅倉久志さんに相談し、佐藤高子さんに決まった。新井苑子さんに、挿絵だけでなく口絵も依頼した。しかし『オズの魔法使い』の作品は、早川書房のそれまでのラインナップからも異色だった。

営業からも「こんな本、どうやって営業するんだよ」という声が鎌田さんの耳に届く。針のむしろだった。そして販売開始。たちまち重版が続き、鎌田さんは続編の刊行も課長に申し出た。

「じゃあ、おもしろそうなの2、3冊だけね」と了承を得る。

原書の刊行順ではなく、読者におもしろいと思ってもらえる順番で刊行した数冊も売れ、結局全冊刊行することになった。入社後2年めの企画は、14冊も通ったのだ。

自分で訳す、自分でも書く

鎌田三平さん

一度も翻訳学校に通ったことはない。社内で声をかけられて翻訳をしはじめたのは、入社1、2年たってからだ。まとまったものを翻訳すると、見てくれた人がほめてくれ、自信につながった。翻訳は自分に向いていると思ったのだ。

早川書房は6年で退職。その先は具体的に決まっていなかったが、なんとか翻訳でやっていけるんじゃないかと思っていたそうだ。その通り、少しずつ翻訳の仕事で生活することが出来て行った。けれども、いつしか翻訳に対して、もやもやしたものを感じるようになったという。

そして、自分だったらこうするのにという翻訳小説への思いを、自分で書いてみることで解消するようになったのだ。もともと文章を書くのは好きだった。すぐにゲーム小説やファンタジー風の小説を書くようになった。

「自分で書く作品は、自分でつくれるからある意味いいんだよね。翻訳は他の人の考えた文章を読み解いていく難しさがある」

翻訳する、小説を書く、文章を書くことが好きで仕事としてつながっているんですねと問いかけると、「そうです」と即答された。

「仕事に関係なく、いつか自分の好きなものを訳していいとなったら『ジャングルブック』を訳したいね。以前、長島良三さんがいつかちまちまと『パルムの僧院』を訳したいんだよねと話をしてくれたんだけど、その時『パルムの僧院』は未読だったので、話を流して聞いていたんだ(笑)。でもいまその気持ちがよくわかる。『ジャングルブルック』をちまちまと死ぬまで訳してみたい」

――では小説は死ぬまで書きたいですか?

「いや、小説は完成させてからじゃないと死ねないよ。未完なんておもしろくないじゃない(笑)。でも翻訳は既にできあがっているものだからね。ちまちまでもいい」

健康管理の水泳も続けて来られ、横須賀のマスターズ公認記録ももっている。体力バッチリな鎌田さん。これからもたっぷりの翻訳、小説の仕事で私たちを楽しませてくれることはまちがいない。「ジャングルブック」の翻訳は当分先になりそうだ。

 

インタビュアー:林さかな(2015年4月)