翻訳家インタビュー
 
小林宏明さんの巻
生まれたのは
ご両親について
海外TVドラマと音楽
スポーツ、演劇、そして金髪
片岡義男さん
ペーパーバックを買いあさる
著者との交流
原稿用紙からPCへ
“趣味”ではなく、好きなことを
自分のセンスを信じ、リズムに乗って
原文と翻訳について
好きな作家たち
訳書リスト ミニ写真集  


エンタテイメントのジャンルで長く活躍されている小林宏明さんに、今回は質問をお送りして回答いただくという形式で、インタビューをさせていただきました。いつもダンディで飄々としていて、それなのに何をやっても熱くカッコ良い……。そんな小林さんの魅力の秘密に迫れているでしょうか。(編集A)

生まれたのは

質問――どんな幼少期を過ごされたのでしょう(暮らしていた場所や、時代の空気や、思い出など)。どんなものに興味をもち、楽しんでいたのでしょうか。

生まれたのは、東京都三鷹市というところ。妹や弟が生まれるとき栃木へいったりしたようだが、ほぼ東京にいた。幼年期は世田谷の駒沢で、幼稚園へいくのをいやがり、父親がヴァイオリンを習わせたがって、1日だけ教室へいった。小学校へあがってほどなく、とんでもない田舎だと感じた畑だらけの上石神井へ引越し、さらに3年生のとき井の頭線で渋谷から3つめだった目黒区駒場へ引っ越した。

しばらくしてから、毎日放送(TBS系)の連続ラジオドラマ『ゴールデン・ボーイ長嶋物語』の主役一般公募に1800名のなかから受かり、立教大学から読売巨人軍に入ったばかりの長嶋茂雄役を子役として2年くらい演じた。ジャイアンツは、水原監督の時代だった。有楽町にあった放送局のスタジオで何エピソードか録音し終わるたび、付き添いの母親に夜の銀座で寿司の並を食べさせてもらうのが無上の喜びだった。

小学校時代から、おそらく父親の影響でアメリカ軍の極東放送FENを聴くようになり、家にあったシアーズ・ロウバックの分厚いカタログを見てアメリカを夢見るようになった。中学に入ってもこの習慣はつづき、どうやって手に入れたか記憶が定かでないが、『ブロンディ』や『アーチー』などのアメリカン・コミックスを楽しむようになった。カートゥーンの吹き出しの台詞は全部大文字で書いてあったから、アルファベットの大文字の羅列をすらすら読めるようになった。なのに、学校の英語の成績はせいぜい中くらいで、文法などには興味がなく、もっぱらFENのメジャー・リーグ中継を聴いたり、コミックスを読んだり、英語で独り言を言ったりしていた。

ご両親について

父親は国家公務員の完全なる窓際族で、登庁していないときには6畳の和室にイーゼルをおいて油絵を描いていた。家には画集がたくさんあり、キュビズムもシュールレアリスムもモダン・アートの画集もあったが、父親がなにに傾倒していたのかはよくわからない。いずれにせよ、人物や風景はほとんど描かなかった。

母親は読書家で、とくにロシア文学の長編を好んでいた。歯が痛くて頬をきつく押さえながら、『カラマーゾフの兄弟』だったか『戦争と平和』だったかの文庫本を読んでいた姿を思い出す。ぼくには、『小学一〜六年生』という付録付きの月刊誌をずっと取ってくれていた。毎月本屋さんがそれを自転車で配達してくれるのが待ち遠しかった。

海外TVドラマと音楽

モノクロのテレビ受像器がわが家にやってきてから、アメリカのTVドラマを一家で夕食時に観ることが習慣になった。『弁護士プレストン』、『ララミー牧場』、『ローハイド』などは一家のとくにお気に入りだったと記憶しているが、ぼく自身は『サンセット77』や『サーフサイド6』や『ハワイアン・アイ』などを楽しんだ。ブラウン管に登場する拳銃がほしくてたまらなくなって、なんとか小遣いをやりくりしてモデルガンを買ったのはこのころがはじめてだ。

音楽は、イギリス出身のビートルズを知らなかったので、エルヴィス・プレスリー、ニール・セダカ、ポール・アンカ、ビーチ・ボーイズ、カスケーズ、ケーシー・リンデン、ナンシー・シナトラ、パット・ブーンなど、夜に文化放送ラジオの『ユア・ヒットパレード』などでごちゃまぜに聴いていた。

スポーツ、演劇、そして金髪

高校生活の中盤から後半にかけては、もっぱらスポーツや演劇に夢中になり、勉強や趣味はほったらかしだったせいで成績は思わしくなかったが、落ちることなどまったく考えなかったすべり止めの大学の英文科に引っかかって受かったものの、入学してすぐに学園闘争で学校が封鎖になった。

そのころ恋人の影響でフランス文学などもかじってみたが、やはり性に合わなかった。暇でしかたがないので、他大学や演劇科にいた友人とつるんでアングラ芝居をやり、自前の脚本も書いて寺山修司張りの公演をやったこともあった。それでも暇だったので、A4紙で数枚の論文(英語論)を英語で書き、ボチボチ再開した講義で教授に見てくださいとたのんだ。卒業論文でも試験の論文でもなんでもないのに、教授はちゃんと読んでくれて、とても褒めてくれたと記憶している。

きっかけがなんだったか思い出せないのだが、たしか大学封鎖中に文学部英文科で芝居を打とうということになり、有志何人かが集まった。演目はイギリスの劇作家ジョン・オズボーンの戯曲『怒りを込めて振り返れ』ときまり、現在大学教授をやっている友人が演出を、ぼくが主役のジミーをやることになり、演出家の強い意向で髪を本格的に金髪に染め、舞台に立った。学部の趣向だったので、教授たちを招待して観劇してもらうと、たいへん好評を得た。

金髪のぼくは学部で目立つ存在になり、英語の成績もよかったので、ある教授の同人誌めいた文学雑誌で翻訳をやってみないかと誘われ、在学中に何度かやらせてもらった。大学を卒業すると、就職もしないで材木屋やレストランでアルバイト暮らしをしていたぼくに、また教授が翻訳エージェンシーを紹介してくれた。

片岡義男さん

――翻訳を仕事にすることにつながるきっかけや、エピソードがあれば教えてください。

翻訳エージェンシーを介して知り合ったのが片岡義男さんで、彼にはおおいに啓発され、傾倒して、そのセンスを盗んでやろうとしたが、斡旋される仕事のほうはあまりまじめにせず、ヒッピー文化やロック・シーンなどの緑色革命と呼ばれたアメリカ大衆文化の動向を追いかけていた。

ヒッピー文化とは対極にあるバイク・シーン、ヘルズ・エンジェルズなどのアウトロー・バイカーズに興味をもってチョッパーを自作し(ミニ写真集参照)、ロングヘアで乗りまわしていたのもこのころだ。当時アメリカでは新しい言葉がたくさん生まれ、それが俗語や隠語の域を出ていっていたので、仕事のためにもそのような言葉遣いや単語を必死で収集していた。

そんなことをしながら、『ローリング・ストーン』誌日本版の翻訳などをしているうちに人脈が広がっていき、翻訳エージェンシーとは疎遠になり、いまにいたっているが、近年ぼくをふたたびGUNに目ざめさせてくれたのは、八代登志江さん、東江一紀さん、相原真理子さんのすでに鬼籍に入った3人だった。

――話が少しがそれますが、ご著書の『GUN講座』について、相原真理子さん、東江一紀さん、八代登志江さんとの経緯も教えてください。

自社の雑誌に銃のことを連載してみないか、と誘ってくれたのが八代登志江さん。連載が終わってから、それをふくらませて1冊にしたらどうかといって出版社を紹介してくれたのが、東江一紀さん。

パソコンを教えたのがきっかけで、英文の銃描写についての疑問をひっきりなしにぶつけてきたのが相原真理子さんだった。彼女とのいきさつは、今年(2015年)夏に東京創元社から出版予定の『銃を読み解く23講』というエッセーに書いた。

〔注:『銃を読み解く23講――見る、読む、訳すGUNの世界』は「キイ・ライブラリー」の一冊として2015年7月に刊行〕

ペーパーバックを買いあさる

――社会に出てから現在に至る、お仕事の流れを教えてください。

学業を終えてから仕事にはあまり熱心でなかったが、片岡義男さん、植草甚一さんのお宅へ遊びにいって、アメリカのペーパーバックが廊下や床にうずたかく平積みになっているのを見たときは、発奮した。以来、神田神保町をはじめとして渋谷恋文横町や早稲田に足しげくかよい、しまいにはニューヨークにまで足をのばして、ペーパーバックの古本を買いあさった。もっぱらハードボイルド・ミステリだ。

裏表紙のレジュメをすばやく読んで、おもしろそうなものを選別するのが速くなった。だが、仕事に生かせたかというとそれほどでもなく、依頼される仕事は、当初ロック・ミュージシャンの伝記などの音楽関係と、ミステリとはかぎらないエンターテインメントが半々といったところだった。

著者との交流

翻訳の仕事が軌道に乗りだしてから、自分から作者や著者に連絡を取ったことはないし、取る必要を感じたこともとくにないが、相手から連絡がきたことはある。東京で会ったことのあるイギリスの女流作家、モー・ヘイダーと、人を介して知り合ったヘルズ・エンジェルズのニューヨーク支部長補佐のふたりだ。モーは東京を舞台とする作品を書くにあたって、ぼくにアドバイスを求めてきた。何度もメールをやりとりしたあと、それまで他人に教えたことがないという本名を教えてくれた。ぼくの大好きなファーストネームだった。

ヘルズ・エンジェルズの支部長補佐は、支部長の自伝を日本で出版するにあたって、翻訳者はぼくが適任だということを伝え聞き、連絡を取ってきた。やはりメールのやりとりだったが、支部長本人は直筆サイン入りのヘルズ・エンジェルズ・グッズを何点か個人的に送ってきた。だが、彼は末期ガンを患っていて、アメリカで本が出版される直前に他界し、翻訳出版も実現しなかった。

原稿用紙からPCへ

――最初は手書きでのお仕事だったと思うのですが、PCなどとの出会いや、その後の活用などもぜひ教えてください。

安く買えたアメリカのCD-ROM

はじめはむろん原稿用紙に鉛筆で訳稿を書いていた。だが、コクヨの400字詰めなんか使わずに、わざわざ市ヶ谷の文房具屋まで足を運び、そこにしか売っていない緑色枠の200字詰め原稿用紙を大量に買ってきた。片岡義男さんの真似だった。

ワープロが世間で流行りだすと、新しいもの好きのぼくは富士通のOASYSを買って何年か使った。はじめてパソコンを買ったのは1990年代の初期で、ウィンドウズ3.1のマシンだった。シェアがいちばん大きかったNECの98シリーズには目もくれず、ハードディスク容量がたったの360MBだったと記憶しているエンデバーという銘柄のデスクトップ・モデルだった。

アメリカの百科辞典や辞書や地図のCD-ROMが驚くほど安価であることを発見し、秋葉原を巡り歩いていくつも購入し、インストールして、まだ普及していなかったインターネットの代わりにしていた時期もある。

“趣味”ではなく、好きなことを

――趣味について。(趣味とするには、あまりにも深すぎるという印象ですが、バイクやスポーツなど、愛好し手がけてきたものについて)

銃やバイクは“趣味”という枠におさまらなかった。もともとぼくには趣味という概念の持ち合わせがなく、なんでも広く浅くかじるのが本性らしい。半端人間なのだ。

好きなことはある。たとえば、「日曜日にオムライスをつくること」は好きだ。「電動工具を使うこと」も好きだ。つらつら揚げていけば、「ダンディに装おうと努力すること」も好きだ。「ヒストリーおよびディスカバリー・チャンネルを見ること」も好きだ。「アコースティック・ピアノで演奏されるジャズを聴くこと」も好きだ。「オーディオ・ヴィジュアル機器の配線をいじくること」も好きだ。「テープやCDで落語を聞くこと」も好きだ。「パソコンで銃のイラストを描くこと」も好きだ(ミニ写真集参照)。いまは、「写真を上手に撮ること」を好きになりたいと思っている。

自分のセンスを信じ、リズムに乗って

――翻訳という仕事について思うこと、感じることを教えてください。

語ってきたような人生を送ってきているので、仕事としての翻訳について深く考えたことはないし、突きつめてみようと思ったこともない。家の本棚にならんでいる「小林宏明訳」の本の数をかぞえてみたら、全部で157冊あった。フィクションが112冊と、ノンフィクションが45冊だ。

魂のこもったシリアスな文学や、広く読まれるべき社会派のドキュメンタリーは、1冊もない。そんなわけだから、原文の1語の訳をまる1日考える、などということもしたことがない。エンターテインメントの翻訳をするさいには、自分のセンスを信じ、リズムに乗ってキーボードをたたく、というのが大雑把に言ってぼくのやり方だ。

翻訳がうまいなどとお世辞にも言われたことはないが、“こなれた日本語”を駆使したすらすら読める翻訳をめざしてはいないし、そういうものにあこがれたこともない。英語(ぼくの場合)をあまりにも日本語化してしまうことに抵抗を感じるからだ。もちろん時と場合によるが、英語のセンテンスが感じさせる動的な躍動が、日本語の静的な抒情に置き換えられてしまうような気がする。まるで最初から日本語で書かれたものを読んでいるよう、というのも好きでない。

原文と翻訳について

ぼくがとてもリスペクトしている同業のベテラン翻訳家がふたりいる。どちらも言葉にたいへん敏感で、センスがあり、文章力もすぐれていて、翻訳に一家言もっている。だが、このふたりの翻訳に歯に衣着せぬ批判を浴びせたブログが数年まえネットに登場した(現在は閉鎖)。北海道で医師を務めるM氏は、ふたりが翻訳した本をそれぞれに取りあげ、原文を併記して訳文について比較的長く考察していたから、たんなるアラ探しや言いがかりでないことは、すぐに判断がついた。

邦訳された文章だけを読んだら、きっと読みやすいすぐれた翻訳だと感じただろう。しかし、原文とつき合わせると、M氏の言うことももっともだと納得することが多かったのも事実だ。つまるところ、まず、翻訳にはかならず誤訳がついてまわる。また、考え抜いた日本語化は下手をするとやりすぎになりかねず、かえって読みづらさや曲解をまねくこともある。どんなに世間一般から認められている翻訳(家)も、読み手からの評価はさまざまに分かれるということだ。

好きな作家たち

長いことやってきた翻訳はエンターテインメントばかりだから、とくに共感や愛着をもつ作家はいなかった。共感や愛着は、1冊1冊にもってきた。だが、好きな作家はいて、そのひとりはジョゼフ・ウォンボーだ。原文を読んでいると思わず声を出して笑ってしまうが、翻訳ではぜったいにおもしろさを表現できないと思えたコップス・トーク(警官同士のおしゃべり)が絶品だった。アメリカン・ノワールの色がとても濃いジェイムズ・エルロイも、翻訳はやっかいだが好きなひとりに数えられる。

多くは内容をすっかり忘れてしまっているのに、記憶にしっかりとどまっている本が1冊ある。リー・チャイルドの『前夜』という作品だ。母親がパリのアパルトマンで息を引き取ったという知らせを、主人公の好漢リーチャーが聞くシーンがあるのだが、そのときの彼のようすはとても印象的で、カミュの『異邦人』の主人公ムルソーを即座に思い出させた。リーチャーもムルソーも、大きな悲しみや喪失感をいっさい表現することなく、淡々と母親の死を受け入れていた。『前夜』を訳し終えて、ゲラを読んでいた1月の寒い朝はやく、ぼくも老齢の母が永眠した知らせを病院から電話で受け取った。ゲラを手にしていたぼくは、リーチャーやムルソーと同じように、妙に澄んだ気分を感じたことを思い出す。


●小林さんの推薦図書:『翻訳問答――英語と日本語行ったり来たり』(片岡義男×鴻巣友季子;左右社;2014年)

 

(2015/02/27 ☆2015/07/20)